1. はじめに
水村美苗の『大使とその妻』は、軽井沢で出会ったアメリカ人日本研究者ケヴィンと、元大使の妻である貴子の交流を軸に、日本文化の継承やアイデンティティの問題を深く掘り下げた作品である。ブラジル移民としての貴子の生い立ち、日本という国に対する期待と現実のギャップ、そして「ちゃんとした日本人」になることへの葛藤が、細やかな描写で綴られている。本書を通じて、国家の政策によって翻弄される個人の人生や、日本文化の喪失と継承の問題について考察したい。
2. あらすじ
軽井沢で出会ったケヴィンと貴子。ケヴィンは、裕福な家庭に生まれるも複雑な家庭環境を抱え、過去の悲しい経験を背負いながらも日本文化に魅せられ、25年間日本に住んでいる。しかし、日本の古き良き文化や伝統的な日本人の姿が失われつつあることに幻滅している。
貴子は、元大使館の妻であり、知的で美しい女性。日本語だけでなく英語も堪能で、かつては弁護士として働いていた。能を舞い、横笛を吹くが、精神的な病を抱えている。彼女は京都から軽井沢に引っ越してきて、ケヴィンと出会う。当初ケヴィンは、貴子が由緒ある日本の家柄の出身だと想像するが、やがて彼女が日系ブラジル人であることを知る。
貴子は、日本に馴染めず苦悩し、夫とともにブラジルに戻ることを決意。その後、彼女の壮絶な過去が明らかになる。貴子は幼い頃に家族を次々と失いながらも、出会った人々の助けを受けて「ちゃんとした日本人」へと成長した。しかし、日本での生活は彼女の心を壊し、精神の病を発症させる。
物語の終盤、ケヴィンは再び貴子に会いたいと願うが、彼女と連絡が取れなくなる。果たして、貴子は再び日本を訪れるのか。そして、ケヴィンと貴子は再会できるのか——。
3. 登場人物
ケヴィン
アメリカ出身の日本研究者。過去の家族の悲劇を背負いながら、日本文化に強く惹かれ、在日25年を迎える。しかし、現代日本の変化に失望している。LGBTの要素も持つ。
貴子
元大使館の妻。日系ブラジル人として厳しい環境を生き抜き、日本文化を学び「ちゃんとした日本人」となった。しかし、日本社会の中でアイデンティティの葛藤を抱え、精神の病を発症する。
林健吾(貴子の父)
12歳でブラジルに移民し、過酷な人生を送る。日本帰国を夢見ながらも叶わず、最終的に悲劇的な運命をたどる。
篠田(貴子の夫)
日本の外交官であり、貴子の理解者。しかし、貴子の心の奥底にある痛みを完全に癒すことはできなかった。
4. 作品の主題と考察
4.1 ブラジル移民の歴史と国策の変遷
日本政府の政策によって送り出された移民たちは、新天地で苦しい生活を強いられた。時代の変遷とともに、国は彼らを必要としなくなり、彼らは「祖国」に帰ることも叶わなかった。貴子の父・健吾の人生は、この歴史の犠牲となった一例である。
4.2 「ちゃんとした日本人」とは何か
貴子は、日本文化を学び、完璧な所作を身につけたが、それは本当に「日本人」になることだったのか。彼女の努力と成長は尊いものであったが、それが精神を病む原因になったことは皮肉でもある。では、「ちゃんとした日本人」とは何なのか。この問いは、現代日本を生きる私たちにとっても重要な問題である。
4.3 日本の文化の継承と変容
伝統的な日本文化は、長い年月をかけて形成され、受け継がれてきた。しかし、現代の日本ではそれが軽視されつつある。ケヴィンの嘆きや、貴子の努力は、その変容を象徴している。文化は変わるものだが、果たしてどこまでが許容されるべきなのか。
5. 作品の表現と構成
日本人の所作とその美しさは、能をはじめとする古来の文化が長い時間をかけて継承されてきたことに関係すると感じた。能の舞に漂う神秘的な雰囲気にも強く惹かれる。さらに、貴子の過去が少しずつ明かされていく構成は、読者の関心を巧みに引き寄せ、物語に対する興味を持続させる。
6. 結び
『大使とその妻』は、日本という国の本質、アイデンティティの喪失、そして歴史の中で翻弄される個人の姿を描いた作品である。読後には、「日本人であるとはどういうことか?」という問いが心に残る。
人生は時に切なく儚い。しかし、たとえ過去に翻弄されようとも、人は前を向いて生きるしかない。本作は、そんな生きることの本質を静かに問いかけてくるのである。